私の喜劇人生

(コメディ・ライフ)



空に星が輝くように、地上に花が咲くように
人々の間には『人生』がございます。
すすけた人生、輝かしい人生、色々あれど
この二代目三波伸介、
生きてることと存在することが
これ喜劇
私の「喜劇人生」ご笑覧あれ。

二代目三波伸介


私の喜劇人生-1

父と子

我が父親は、東京人情喜劇のエキスパートの様に思われているが、家でのオ ヤジは180度違うナンセンス・ギャグのエンサイクロペディアだった。都会 育ちの私はハロルド・ロイドのソフィスティケーティッドなサイレント・コメ ディが好きだった。

コメディアン

「チャップリンとロイド。どっちがすき?」
「ロイド!」
「さすが俺の息子だ!でもマルクス・ブラザースを観なきゃナンセンスは語れねぇ よ」
「じゃぁ、マルクスを観せとくれ」
「残念ながらフィルムが今ねぇ」
これが父と5歳児の会話だった。

マルクス

スクリーンのマルクスに出会えるのは、これより 10年の歳月を要するのだった。その間、私はモンティ・パイソンにしびれ、 メル・ブルックスを信奉した。
高校1年の時、杉並図書館でマルクス兄弟主演 「我輩はカモである」をついに観た。画面雨降りの劣悪なフィルムであったが 天才バカボンのママが怒った時の様な衝撃を受けた。
感動した。これだ!私の人生は!

反抗

帰宅しこの感動を父に話すと父は烈火の形相で怒った!私も高校生だ 将来の自分の道を語り怒られたのではこれから先、妥協の人生を送る事になる 怖いがオヤジに反発した。
「俺の目指す道が、オヤジと一緒だからってそんな にいやかい?怒る理由を云ってくれよ!」
「なんで俺も連れてかねぇんだ!」
「・・・・・・」

ディズニー映画

4歳頃からディズニー映画を観まくった。
モチロン幼稚園児が一人で映画館に行けるハズもなく、 専らキクコさんと云うオヤジのお弟子さんが連れていってくれた。
このキクコさんはとてもおっかないおねえさんで、私がイタズラしたり、 ご飯をちゃんと食べないと、すぐ怒る人だった。
すごい、ディズニーオタクでピノキオは100回くらい観てる人だった。

ミュージカル・コメデイへ

私の家は新宿なので歩いて映画館に行ける。一週間に2回は観てたと思う。
アニメではなく実写版で観たディズニー映画「メリー・ポピンズ」は感動した。
ディック・ヴァン・ダイクのスマートなコメディアンぶり、 ジュリー・アンドリュースの美しさ(声も顔も)。
見事な映像美。

白雪姫

幸せな4歳児だ。キクコさんありがとう。
でも、キクコさんは何時も白雪姫になりたがっていた。
白馬の王子様を待っていた・・・。

スラップ・スティック

ディズニーも好きだったが、TVの外国アニメのスラップスティックぶりも 大好きだ。
日本のコメディアンは外国アニメの吹き替えを演ってる人が多い。 私の父親は「ヘッケルとジャッケル」のジャッケル、
「フィリップス・ザ・キャット」のテレビ人間等々、たくさん演じている。

関敬六さん

関敬六さんは「怪獣王ターガン」で「ムッシュ・ムラムラ」と云う奇妙な 造語を発している。

疑問

私は関さんに「ムッシュ・ムラムラ」はどう云うキッカケで発されたのか?
どう云う意味なのかと聞いたことがある。 関さんは「『ムッシュ・ムラムラ』って感じなんだよ。」と云って笑っていた。
さすが!!関敬六さん!


私の喜劇人生-2

外国TVアニメ

外国TVアニメは面白い。ハンナ・バーベラは有名だ。
「チキチキマシン猛レース」が一番メジャーだが、私的にはハンナ・バーベラ 中、最もマイナーな「ペネロッピー危機一髪」が一番好き。ビデオ化はまだか?

まんが実写版

まんがの実写版もおかしい。「忍者ハットリくん」で最高だったのは、 東北出身の大コメディアン・谷村昌彦さん扮する「花岡実太(ハナオカズッタ)」だ。
「ワタスの名前は“鼻を囓った”じゃない“花岡実太”!!」は毎度だが、 谷村さんのパーソナリティーで本当おかしい。

谷村さん

悪役・ケムマキが、早く給食を食べたくて忍法で早めに終了ベルをならす。 本当は2時間目の終わりなのだが・・・。
何故かみんなで給食を取りに行き、いざ食する瞬間、怒りの校長が教室に 飛び込んでくる。
校長「花岡くん!!何やっとるのかね?」
花岡先生、おかずを口に運ぶ手を止め
「ワタスもちょっと早いとおもったんだ・・・・」
もちろん目はさみしげにおかずをみつめてる。
谷村さん最高!!

吉田義夫さん

「悪魔くん」の兄メフィスト・吉田義夫さんは東映時代劇の悪役スター。
「旗本退屈男」で市川右太衛門に何回斬られても、なかなか死なない。
やはり、メフィストだからか?弟・メフィスト(何故、兄・弟と出るかというと 映像マニアの間では有名だが、吉田義夫さんがケガで降板した為)

潮健児さん

潮健児さんもすごい顔してる。いるだけでおかしい。メフィストはぴったりだ。
後に潮さんは仮面ライダーの地獄大使で有名だ。

地獄大使

ボクは「地獄大使」に会った事がある。オヤジと一緒に後楽園球場に、 都市対抗野球を観戦した帰りだ。
夏なので仮面ライダーショーをやっていた。
オヤジ「おっ!!仮面ライダーショーやってるぞ!!」
私「みたいなァ〜!!」
オヤジ「フフフフフ、伸一、実はお父さんはショッカーと内通しているのだ・・・」
私「うっそだぁ」
オヤジ「本当だ!!ついてこい」
云うとオヤジはショーの楽屋へどこどこ入っていった。

ショッカー

中に入ると地獄大使が煙草を吸っていた。
ギロリとこちらを見る。私はドキリだ。
地獄大使「おう!!三波ちゃん!!どしたの?」
オヤジ「潮ちゃん、俺がショッカーの一員だと証明してくれ。」
地獄大使「ボク、お父さんはショッカーの一員だ。そして、君も・・・。」
ショックな一日だった。でも、これで俺は学校で敵なしだと思った。
なんたって俺はショッカーの一員なのだから。
後に知った事だが、オヤジと潮健児さんは親友だった。 二人で若い頃、映画のエキストラをやってたらしい。

余談

余談だが、大人になって「ゾル大佐」「死神博士」「ドクトルG」とも 会うことになる。しかも、「ドクトルG」は車で家まで送っていったくらいだ。


やはり、私はショッカーだったのか・・・!?



私の喜劇人生-3

「てなもんや」

私が3,4才の頃、オヤジは大阪・朝日放送の怪物番組
「てなもんや三度笠」にレギュラー出演していた。
オヤジは私を「コメディ」に興味を持たせようと、 ありとあらゆる手を使ったそうだ。
「てなもんや」は公開生放送。
「てなもんや」の放送翌日、オヤジ様は帰京する。

「栗饅頭」

その帰京土産で楽しみなのが日本航空の機内おやつとして 出る「栗饅頭」だ。
これがうまい。私はそれを食べるのを週一の楽しみにしていた。
つまり、オヤジが「てなもんや」に出る。
それを観る。
あくる日は栗まんじゅうが食えるという「パブロフの犬」よろしく オヤジは私に条件反射を植え付けたのだ。

パブロフの犬

必然的に私は「てなもんや」を楽しみにする。
観れば色々覚える。
母の談によると、私は3才にして「てなもんや」の主題歌を フルコーラスで唄えたそうだ。
三才にして「喜劇の父子鷹」は「巨人の星」放送以前に 一徹・飛雄馬の様に喜劇の英才教育を開始していた。
・・・そんな大ゲサなもんかい・・・!!

喜劇の味

「てなもんや」は藤田まことさんのパーソナリティの他に、 白木みのるさんの個性で盛り上がっていたのも事実だ。
「喜劇」の味を覚えた私が次に連れられたのは、
浅草・松竹演芸場の「デンスケ一座」だった。

デンスケ

大宮敏充さんのデンスケは観てるだけでも、ほんと、楽しかった。
昭和39年生まれで生「大宮デンスケ」を観てる人は少なかろう。
その「デンスケ一座」の帰り道、浅草六区の興行街を歩いていると 人ゴミの中から小柄な男の子がオヤジに声をかけた。

白木氏

「よう!三波ちゃん!」てなもんやの珍念・白木みのる、その人だった。
オヤジと親しげに世間話をしているとチラッと私を観て
「三波ちゃんの息子?可愛いね!いくつ?」
と云って私の頭をなでた。

!??

対して私と身長が違わぬのに・・・
私は「4才!!」と答える。
白木氏曰く「お父ちゃんの云うこと良くきくんやで!」
とニッコリ笑い、雑踏に消えた。
私はしばし言葉なく白木氏を見送り、やっとオヤジに声をかけた。

すごすぎ

私「あの子、子供のくせに三波ちゃんだってよ!」
オヤジいわく「伸一、白木は俺とおない歳だよ・・・」
私は、びっくりしたなぁもう。だった。
白木みのるさん。あの永遠の少年は凄すぎる。


私の喜劇人生-4

『道化師』

私が小学5年の時衝撃のレコードに出逢った。
クラシック音楽好きの私のために、オヤジは様々なレコードを紹介してくれた。
その中でも強く心に感銘を受けたのが
レオンカヴァレロ作曲『道化師』であった。
オヤジ曰く
「喜劇の原点は道化にあり。やっぱり『道化師』を聴かなくちゃ。」

マリオ・デル モナコ

マリオ・デル モナコ演じる喜劇一座の座長・カニオは 妻を寝取られながらも道化として舞台に立ち、客に笑われる。
そのつらい悲しみをドラマティックな歌声に乗せ痛烈に心を打つ。
感動した。モナコの声はすごい。しびれた。

マイム

そして、フランスでピエロ、イタリアでパリアッチ、アメリカでクラウン、 つまり、道化師に異常に興味を持った。
道化師の芸の一つにパントマイムがあげられる。
フランスのマルセル・マルソーやアメリカのロバート・シールズが有名だが、 私は親子三代、道化師の喜劇俳優レッド・スケルトンの パントマイムが大好きだ。

鼻水が・・・

オヤジもスケルトンが大好きで、 彼の自画像を大枚はたいてアメリカで買ってきたぐらいだ。
エスター・ウィリアムスと共演した「世紀の女王」は、 売れっ子作曲家でありながら彼女が教鞭をとる女子大に入学してしまう 奇妙な男の役を演じた。
作品中にみせた伝説的マイム「女子大生の寝起き」は 爆笑を通り越して鼻水を流すほど素晴らしかった。

たまらない

「ジーグフェルト・フォーリーズ」の中ではジンのCMをへべれけになって つとめるテレビタレント役で絶品のマイムをみせた。
スケルトンは笑顔と絶妙のマイムとの間にちらりと見せる淋しげな表情が道化師の 王道をゆく血筋を感じさせる。たまらなく良い。

別物?

私はスケルトンのマイムを思い浮かべるとき、モナコの歌声が脳裏をよぎる。
オヤジは私に聞いた。「『道化師』はどうだった?」
私「しびれたよ。悲しげな響きがたまらないね。」
オヤジ「悲しげ?楽しい曲じゃなかったの?」
オヤジは「道化師のギャロップ」と勘違いしてた。
ちなみにコール・ポーターの「ビー・ア・クラウン」も良い曲です。
みなさん聴いてみて下さい。


私の喜劇人生-5

『絵』

親父はつねに云っていた。
「コントってのはフランス語。アメリカのコメディアンはスケッチって云ってんだ。覚えとけ。」
多分、ウチは親子で志が同じだから確執と云うのは、ヨソ様よりは少なかったろう。
しかし、一つだけ大きな対立構図が存在した。
それは、大袈裟に云うと「絵画」であった。

『確執』

親父は「減点パパ」で、または「三波伸介の凸凹大学校」のエスチャーで周知の通り、 「絵」がうまかった。
いや抜群の感性と腕前であった。
しかし、私も“新宿区が生んだ井の中のかわず”で、後に美大に進んだ由である。
親子で絵の質が酷似していれば、コントやスケッチよろしく
“対立の構図”は生まれるはずもなかったが、親父と私の絵はまさに好対照であった。

『似顔絵』

志ん生と文楽の様に、ここまでくれば好き嫌いの域であり、
批評を求められる側は、事の正否を二人の顔色をうかがいながら
明確な解答は避けざるを得ない状況にもっていかれる。
問題は 親父も私も「似顔絵」が最も得意であると云う事。

『違い』

親父は正確な骨格表現を「影と点」の重視で
内面的性格を「似顔絵」として創り上げる名人。
対して私は、デフォルメに重点を置き
「パロディ」と云う「小道具」を使い「線」でカリカチュアする仕上げ方。
「なんのこっちゃわからん。」と云う人も、出てくる言葉が違うからご理解下さい。
とにかく違うのです。

『被害』

親子の似顔絵合戦で迷惑を被るのはモデルになった方々。
二つの作品に対し、絵の技術は認めるものの
「俺の顔ってこんな変なの?」
と、心に思いつつ、エスカレートする勝負?に辟易された事でしょう。

『*年後の怒り』

「誰の何年後」と云うテーマで勝負した時、
私の母(伸介夫人)の30年後を二人で描いた。
二人で描きたい放題描いて、親父の弟子達は大笑いしたが、
その、似顔絵を見た母は、烈火のごとくに怒り、
「今日は夕食なし!!」と宣言。
しぶしぶ日本そば屋でざるそば食べに行った思いでがよぎる。

『そして、30年後』

しかし、しかしである。
この似顔絵対決は父亡き30年後の今、決着がついた。
おそろしい程、今の「母」にそっくりなのである。
私の絵は完敗した。
母自身も「私だって、あの頃は30代でしょ。婆さんになった顔なんて想像したくないよ。 でも、いま、まじまじと鏡みても、悔しいけどお父さんの描いた似顔絵はそっくりだよ。」
と、会心作と認めた。

『三位一体』

内面の表情をとらえた父の表現力の勝ちであった。
ヒッチコックやスピルバーグの絵コンテの本を私に見せて
セリフと動きと絵の三位一体こそ、表現力の基本」
と、教えてくれた父。
見事なコント、いや、スケッチのご教授でした。
でも、俺は絵では負けてない…と思う…。


私の喜劇人生-6

『絵その2』

親父は何故か、富士山が好きだった。
常々、隠居したら富士の裾野に家を建てて、日本画を描いて暮らすと云っていた。
旅行と云う名を借りた「三波一門」夏合宿は 毎年、静岡県熱海温泉で行われた。

『スケッチ』

笑いの特訓?(人は宴会とも呼ぶ)の合間、 富士山近辺にスケッチに出たりもした。
でも心の底では子供らしく「富士急ハイランド」で 遊びたいな〜と思いつつ、逆らうと後が怖いので同行した。

『絶景』

山間は空気も素晴らしく、そして絶景だ。
親父と私は、筆さばきも見事に、 その絶景を平面な紙の上に新たなる色彩として蘇らせる。
気分はもうすっかり「横山大観」先生である。
画を描かない母や弟子連、マネージャー諸氏は
「峠の釜めし、オカマめし〜ぃ♪」
などと訳の分からぬ唄に興じている。
私と親父は一心不乱だ。

『冷え』

夏期とは云え、山間部の涼しさは時間の経過と共に都会人に対し、 容赦なく「冷え」を与える。
つまり、小便をもようしたわけだ。
親父は筆を止め、弟子一同に向かい
「おい!!小便がしたくなった。どこかにトイレは無いか?」
弟子一同「こんな山にトイレは無いっす。 俺たち、そこのガケみたいな処に放尿しました。 そこでしたらどうです?」
親父「人、いねぇだろうな?」
弟子一同「大丈夫っす。誰もいないっす!!」

『臨時トイレ』

私と親父は違法な立ち小便をする為、ガケっぷちに立った。
深々とした霧が立ちこめ、近くに鳥のさえずりも聞こえる。
する事がする事でなければ、とても美しいシチュエーションなのに…。
しかし、生理現象には勝てず、親子はガケから放尿した。

『着地音』

しかし、しかしである。
ここはガケのはずだ。
なのに小便の着地音が異様に早く聞こえる。
この霧の下はガケではないのか?
コントの様に霧が引くと、そこに段々畑があらわれ、 農具を持った、オバサンがじーっと親子のイチモツを比べてる。
無言だ。

『そして…』

男性諸氏はおわかりと思うが、開いた尿道を閉じる術もなく、 ただ放尿するだけだった。
無論、親子は無言赤面で走り去る。
後で、弟子一同が大目玉をくらったのは云うまでもないだろう。
正に「スケッチ描かずに、恥かいて逃走した」とはこの事だろう。

管理人…↑「スケッチ描かずに、恥かいて逃走した」なんて言葉あった???(笑)


私の喜劇人生-7

『絵その3』

「阿佐ヶ谷のセザンヌ」と自称していた親父は、
晩年日本画を趣味とし、 自室を改造して六畳の和室を作り、作務衣に着替えて、 多くの筆や顔料を操り、日本画家を気取っていた。
その顔料を画材屋に買いに行かされる役目は私で
しばしば、私は自らの小遣いでは買うことの出来ない
高価な油絵の具をついでに買っていた。
(今になって反省)

『似顔絵合戦』

似顔絵決戦は、ついぞやむ事なく、外国のコメディアンや 物故された日本の名喜劇役者を二人で描いた。
果ては講釈師宜しく、見た事も会った事もない歴史上の人物、
例えば江戸時代の名力士、谷風梶之助、小野川喜三郎、 そして、雷電為右衛門と云った、本物を見た人は生存している訳もなく、 錦絵の中でしかお目に掛かれない人々にまで至った。
これでは、似てる、似てないが判別出来ない。
絵の中にどれだけの演出を加えるかで、見る人の評価が下る。

『力士絵対決』

親父は雷電が五人の力士が一斉に飛びかかる絵を描き、 私は雷電が土俵の柱めがけて、力士をブン投げてる絵を描いて悦に入っていた。
皆は「二人とも上手」で、この件に関わりを持とうとしなかった。
しかし、想像力似顔絵の決戦は、ある日、思わぬ所で決着がつく。

『減点ファミリー』

「減点ファミリー」を御覧下さる方々によく、
「あれは、出てくる人を知ってるんでしょ?」とか
「鉛筆でうすく、下描してるんですよね?」と云われ、
親父は常々、心外に思っていた。

『似顔絵秘話』

親父の名誉の為に云っておくが、
現場に立ち会った私が云うのだから間違いない。
親父はもちろん、誰が出てくるか知らないし、まして
「鉛筆でうすく下描き」なんて絶対にありえない!!
それより、絵を描かれる方、特にプロの絵描きの方々は
必ず気づき、驚かれる。
子供と対面し、似顔絵を描く。パネルは真ん中にある。
つまり、横向きで真正面の似顔絵を描いているのだ。
これを読まれた方、是非、試して頂きたい。
横から描くだけでも大変な「芸」なのです。

『新幹線にて』

それは、さておき。
或る日、親父と共に新幹線に乗っていた。
親父は乗り物に乗ると普段のハードスケジュールの為、 すぐ寝てしまう。
寝ようと思ったその時、一人の品の良いおばあさんが私達の前に立っていた。
親父にサインを求めに来たのだろうと思った私は
「後程、私が座席の方へ、サインをお届けに上がるので
座席番号をお教え下さい」と云おうとした。
だが、願いは違った。
おばあさんは「こんなご無理を申し上げて申し訳ないのですが…」
と、前置きしての理由はこうだった。

『おばあさんの願い』

第二次世界大戦でご主人は出征され、戦死。
国の英霊になられた。
留守を護ったおばあさんは、東京大空襲で全てを失い、
愛するご主人の写真も焼失し、自らの記憶の中にしか、 ご主人の姿を見る事が出来ない。
親父への願いは
「どうか私の記憶が確かなうちに、主人の似顔絵を描いて欲しい」だった。

『似顔絵』

東京大空襲を経験している親父は涙ぐみ、
眠いのも省みず「私が描いてあげましょう」と胸を叩いた。
おばあさんの話を丁寧に聞き、時間を掛け、
出来るだけ細かく仕上げた。
親父はニッコリと笑い自信ありげに「お母さん、どうですか?」と
似顔絵をおばあさんに見せた。
おばあさんは、暫くジーッと絵を見ていた。
もの凄く長い時に感じた。
親父はニコニコ笑っていた。

『おもかげ』

おばあさんは、長年たまっていた苦労と喜びが相まってどっと涙が溢れ出た。
すると似顔絵を抱きしめて号泣した。
かすかにしゃくり上げる息の間から声がもれた。
「そっくりです。主人にそっくりです。これが主人です…」
あとは声にならなかった。

『決着…』

私は横でもらい泣きしていた。
親父も喜んでいた。
おばあさんは何度も何度も深々と親父に頭を下げ、
礼をした。
そして「伸介さん、あなたは神様です!!」
これは俺には出来ない芸当だ。
やはり、似顔絵は、親父の方が上手い。


私の喜劇人生-8

『喜劇王』

喜劇王と云われた先人達は、数多おられる。
日本で云うならエノケン、ロッパ、金語楼、シミキン、デンスケ、 森川信等々…(敬称を略させて頂いております。)
先代(親父の事を普段、私はこう呼ぶ)は、
とにかく「喜劇王」の名にこだわった。
大時代的な言葉の響きだが「喜劇王」と云う冠が大好きだった。
かく云う私も大好きだ。

『喜劇の灯』

先日、先代の遺品の虫干しをしていると、
榎本健一先生の似顔絵が出てきた。
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初代三波伸介・画 二代目三波伸介・画
もちろん先代が描いた物だ。
情のこもった、素晴らしい絵だ。
そして、榎本先生から頂いた手紙も出てきた。
詳細は略させて頂くが、榎本先生が「三波君」と親しみを込めて
「喜劇への情熱を続けて欲しい。」
「喜劇の灯を絶対に消さないで欲しい。」云々の内容が記してあった。
これを読んだ、先代は身の引き締まる思いだったろうし、 私も改めて肝に銘じた。

『喜劇王・エノケン!』

晩年は鋼の肉体を病で壊されてしまった榎本先生。
先代の日記には、涙ながらに
「榎本先生ガンバレ!!」と 書いてある行もある。
昭和45年、榎本健一先生の告別式から帰ってきた先代の肩を落とした姿は 今でも、幼心に焼きついている。
先代は後々、エノケン映画の名作の話を たくさんしてくれた。
「ちゃっきり金太」の話。
「法界坊」と云う映画のワンシーンを唄と動きまでやってくれた。
大好きだったんだろう…。
この愛すべき「喜劇王・エノケン」が…。

『生きる証』

私は、榎本先生から頂いた「エノケン・サイン入りライター」と「ネクタイピン」をながめながら 「喜劇で生きて行く」気持ちをより一層強くした。
このごろ、しばらくは、親父の愛した喜劇王達をつづってみたい。
2004年、奇しくも、私は浅草で行われた 「エノケン生誕100年祭」に出演、 光栄にも榎本先生の名作コントを演じさせて頂いた。
私の若さで、伝説の方々にふれる事が出来、運命を感じた。
わたしが喜劇を続けることは、 私の生きる証しであるのだから。








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