三波伸介記念館・巻頭言

昭和27年、TV放送開始以来、草創期を経て、TVが最も輝かしかった時代は、
昭和40年代後半〜昭和の終わりまでだろう。
TV番組の黄金期であったと云っても過言ではない。

「笑い」をひとくくりに見れば…
黄金期に輝いた数多のスター達の中で代表をあげれば
「ドリフ」「コント55号」そして、我等、
初代三波伸介の率いる「てんぷくトリオ」であろう。
三波伸介は昭和40年代前半、
コメディ番組や演芸番組の司会をいくつかこなして 「笑点」の司会役の座に就く。
NHKお笑いオンステージの座長をやり、減点ファミリーでは似顔絵の腕前を見せた。

TV黄金期は「ドリフ」「欽ちゃん」「三波伸介」に彩られた。
中でも、東京キー局全てに自らの冠番組
(例えば「三波伸介の○○」と云う様な。)
を持ったのは、おそらく三波伸介が初めてだろう。
一週間に三波伸介の番組は150%位の視聴率を取っていた。
「笑点」は40%を超え、「お笑いオンステージ」は大河ドラマより高く、
「三波伸介の凸凹大学校」はテレビ東京初の20%超、
「スターどっきり(秘)報告」は25%台を常に取っていた。

しかし、三波伸介は「ドリフ」「欽ちゃん」と視聴率を競っていた訳ではない。
「ドリフ」のいかりや長介さんは、同郷・同世代の「親友」であり、
「欽ちゃん」萩本欽一さんは、浅草東洋興業の可愛い「後輩」である。
生前、本人が「長さんはバンド系の笑い、欽坊は欽坊のスタイルがある。
俺とテリトリーが被るところはない。」

事実、二代目三波伸介に訊いたところ
「いかりやさんと話すときはリラックスしてましたよ。
いかりやさんは 墨田の本所、ウチの先代は 本郷の根津須賀町。
同じ東京の下町出身でしかも、年はひとつ違い。
仲の良い友達と云う感じでした。
萩本さんに対しては可愛い後輩と云う感じ。
浅草の東洋興業は縦のラインが強いんです。
先輩には敬意を、後輩には慈しみって感じ。
萩本さんのテレビ観る度に
『欽坊、忙しすぎて身体大丈夫か?』
なんて、本気で心配してましたよ。
萩本さんから直接聞いたんですけど、
ウチの先代が亡くなる一週間前に会ったらしいんです。
その時、先代が
『欽坊、元気か?身体大切にしろよ!!』って云われて、
萩本さんは『ハイ!!お兄さん、気をつける様にします!!』
って答えたらしいんですけど…」

「先代が死んだ日、先代の遺体に向かって
『お兄さん、俺の心配して、 なんで自分の身体、いたわらないのさ!!』
と、語りかけていた萩本さんの姿が忘れられないですね。
いかりやさんは収録の合間にかけつけて下さいました。
あの迫力満点の顔で『おい、死んだって!?どういう事なんだよ!!』
その後、ほとんど長さんは無言でしたね。
二人にしかわからない何かを語っている様でした。」

三波伸介は晩年、レギュラー番組を減らした。
それは50才を境に、自分のライバル達へ挑戦するためだ。
それは「喜劇の舞台」だった。
当時、芸能界で喜劇といえば、映画は渥美 清、舞台は藤山寛美、
そして、テレビは三波伸介と云われていた。
同じ土俵で競いたい相手は「渥美 清」「藤山寛美」だったのだ。
昭和3年生まれの渥美、4年生まれの寛美、そして5年生まれの三波。
同世代として戦前のエノケン、ロッパ、金語楼の様になりたかったのだ。
三波伸介の舞台は3,000人の劇場を昼夜、一ヶ月満員に出来るのだ。
「テレビで名は売った。残りの人生は、喜劇黄金時代の復活だ!!」

これからが目標のスタートだった。
三波伸介は、渥美清、藤山寛美の事をライバル視するだけでなく、尊敬していた。
互いが尊敬し会える所が無ければ、真の好敵手とは云えまい。
三波伸介のテレビ出演料が日本一高くなった時も、
「ギャラが一番高くなっても、喜劇王になった訳じゃない。
良い芝居を残さなくては…」と、云っていた。
しかし、志半ばで終わりを告げる。
昭和57年12月8日、突然あの世に旅立つ。
中野・宝仙寺で営まれた。
葬儀の時、青梅街道と山手通りは 出棺を見送るファン50,000人で埋め尽くされた。


全盛期に逝き、老いた姿を見せなかった「昭和最後の喜劇王」 三波伸介を
忘れないで、もう一度皆様に思い出して頂ければ、 光栄の至りでございます。



三波伸介記念館、三波伸介一門一同



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